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障害のある受験生のみなさんへ

(福島智、東京大学先端科学技術研究センター 学際バリアフリー分野 特任教授)

障害のある受験生のみなさんが大学にチャレンジする意味とはなんだろうか。大学は、「社会に出るために、通過しなければならない必須ゾーンであり、重要なプロセスだから」だろうか。それとも、「障害を克服するため」だろうか。

大学とは現代社会を生き抜き、自らの人生を切り開くための「力」を身につける場所なのだと私は思う。日々多くの制約をかかえて生きている障害者であれば、なおのこと、そうした「力」を身につけることに意味があるだろう。そして大学とは、自らの人生にチャレンジし、飛躍するための「ジャンプ台」でもあると思う。

私自身のことを話す。1981年の夏のある夜、当時十八歳の私に父が言った。

「無理して大学なんか行かんでもええ。好きなことしてのんびり暮らせばええやないか。これまでおまえはもう十分苦労した」。

私は九歳で失明したのだが、それに加えてこの年の始めに耳も聞こえなくなった。つまり、ヘレン・ケラーと同じ「盲ろう者」になっていたのである。

父の声は聞こえないので、父のことばは母が「指点字」で伝えてくれていた。指点字というのは母がたまたまみつけたもので、点字の組み合わせでことばを伝える方法だ。

当時私は東京の盲学校の高等部三年。夏休みで神戸の実家に帰省して、進路問題で父と議論になったのだった。

「そんなのは嫌や。僕にも生きがいがほしいんや。僕は豚とは違うんや」。私は強い口調で言い返した。

安住の地、安楽な未来よりも、不安ではあるけれど、手ごたえのある道を選びたかったということである。あれから28年が経過した。この間、紆余曲折の連続する茨の道だったともいえる。しかし、生きる上での手応えはあった。

ところで、みなさんは自分の障害について、どう考えているだろうか。障害のあることは非常に苦労が多く、苦痛なことも多い。しかし、生きる上での深い部分で、プラスに作用する面もあるのではないか。それはみなさんの姿勢次第だ。

たとえば、障害があるという特殊な体験を通して、私たち障害者は「学ぶこと」「生きること」「幸せであること」「他者と共にあること」、そして「愛すること」といったテーマを、突き詰めて真剣に考えるチャンスを与えられている、と思ってみてはどうだろうか。それは理念としてではなく、日々の困難な体験を通して、そうした思索のチャンスが与えられているということだ。

こうした観点を踏まえたとき、障害のある私たちが大学に進学する意味も増大するだろう。私たちが大学で学ぶのは、この既存の社会の中で一定の地位や収入を得るためだろうか。たしかにそれも大切な目的だろう。だが、それだけではなく、私たちが障害を持っているという体験を通して、その体験に根ざした研究や施策、努力によって、新しい未来社会のあり方を想像し、創造することを目指すという目標も設定したい。

みなさん、東京大学で共に学び、力を身につけ、力を発揮していきましょう。

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